ロビンソン・クルーソーなディレンマ
つくばの進学塾「竹進」の副塾長の牧原です。
まだ殻をつけた蝉が、光に向ってゆっくり進んでいく姿、
わたしは、今年の夏のはじめ、竹進からの帰り道の公園で、
見てしまったのでした。
普通に神々しかった。
踏まれずに、飛びたてるようにと、一心に願いました。
そうすると、未熟な小生は、蝉のことがそれ以来気になって
仕方ないのです。
深夜のウォーキングのときに通る公園、なぜか殻をつけた蝉
がたくさん、人が通る道を歩いています。
「おい、すぐそばに木があるのに、なんでそこ通るかな~」
案の定、多く踏みつぶされた跡が…。
殻をつけた蝉はよくひっくり返っています。
小生の深夜のウォーキングは今や、その蝉をもとにもどしたり、
木にしがみつかせたりの作業と化しています。(他の虫や動物に
食べられるのならともかく、すでに自然から遠ざかった人間に
踏まれるのが耐えられない)
何でそんなことするのか。
Altruism?――いや、もっと人間特有のsubjectiveな感情。
じゃぁ、ethic?――いや、そんな仰々しいものでは…
ロビンソン・クルーソーは、漂流中、本来食糧となるはずのけが
をしたヤギの治療をしましたが、(それがethicのはじまりの感情
だと分析されたとしても)、じゃぁ、ほかのヤギは食べていいのか、
というディレンマはあったはずです。
小生は蝉はたべませんが(www)、知る人ぞ知る超肉食で、
自分の行動の一貫性のなさに、ただ笑ってしまいます(昨日も、
ピザパーティー、焼肉パーティーで大盛り上がりしていました:
肉が大好きだったKing牧師が小生のディレンマの救いですw)。
※友人は「みてて気持ちが悪くなるほど」、小生が肉を食べている
と証言し、高校生は、「私を焼肉にするとおいしそう」といって
いました。
今も竹進から聞こえる蝉の鳴き声を聞いて、なんだか嬉しい
(楽しいのではなく、喜びの感情)気持ちでいっぱいです。今夜も、
(もう何度もやめようと思っていますが)ひっくり返った蝉をみたら、
また「救出」しちゃいそうです。