孤独な部分
初めまして。つくばの進学塾「竹進」の国語・英語担当の尾高です。
つい先日、メールでやりとりをしていたところ、「孤独」という言葉が
相手の文面に顔を出しました。他愛のないゴシップ程度の話題に、
ごく軽いニュアンスで登場しただけなのですが、この言葉を目にする
たびに思い出すエピソードがあります。
今は北国の大学で教鞭を執っている年長の知人から、かつてこんな昔話を
聞きました。彼はもともと編集者や評論家としての実績を持つ人なのですが、
出版社のパーティーの席である高名な映画評論家に会う機会があったそうです。
その評論家は1980年代頃に、当時としては斬新なアプローチの批評を次々と
発表し、後の世代に(強烈な反発も含めて)深い影響を及ぼした人物です。
映画の世界において国際的な発言力もある。
そんないわば「カリスマ」の周りには当然、たくさんの取り巻きが集まります。
パーティーの間中、彼を持ち上げるような挨拶をしたり、言葉をかけたりする
人たちは絶えることがありません。
一人の人間を特権的にあがめたてまつる、そのような場の空気が私の知人は
苦手でしかたがなかった。
ところが、彼は本人と話していて気がついたのだそうです。
どんなに取り巻きたちから賞賛を浴びても、個人の中にある孤独な部分を
この人はきちんと守っていると。
また、それを目のあたりにしてから、この評論家を信用できるようになったのだ
とも言います。
さて、私がそんな話を聞いたのは、お互いに大分お酒の酔いが回っている
時でした。ぐでんぐでんになって居酒屋のそばの駅で別れたのですが、
しばらくしてから「あ、しまった!」と電車の中で頭を抱えてしまいました。
彼が一体、評論家氏のどんな言葉に、あるいはどんな仕草に孤独な部分を発見した
のかという肝心なことを、私は聞きそびれていたのです。
もしかしたら彼はそれをわざとぼかしていたのかも知れませんが。